『浮舟』と源氏物語について

 去る月、大映作品『浮舟』を拝見し、古典文学愛読者として、色々不安や不満を感じ、ぜひ諸先生方の御意見も伺いたいと存じ、拙文を敢て呈するしだいでございます。

 映画は飽くまでも興行に基づき、楽しめ喜ばれる物でなければならないと云う事は、わかっているのですが、古来今日迄、不世出の名作だとうたわれて来た源氏物語は、最早現代に生きる私達が、作品のテーマをとやかく批評する時代は、過ぎたものと思います。学校の教科書に取り上げられ、幾多の学者に今もなお研究され続けられている作品であり、王朝時代の貴族の華やかな中にも、なにかうつろうものを感じさせる、日本史の一時期を教えてくれます。源氏物語が千余年もの長い間、人々の間に伝えられ、尚、現代にしかとした存在を認めさせていると云う事こそ、私達の批評の課題だと存じます。

 それはさておき、私が『浮舟』を拝見して不安に想った事は、原作とあまりに違うと云う事からです。たとえば、薫についても、女二の宮の降嫁をことわる為、官位返上迄すると云う事や、一生の内一人の女性しか愛することの出来ないと云う事。原作では女二の宮と結婚しますし、官位返上などと、とんでもない事です。それに浮舟とは肉体交渉を持ちますし、女二の宮の姉である一品宮にも思いをよせます。又、その他にも一、二の女性と交渉のあった事もうかがえます。

 浮舟についても同様で、映画の浮舟程薫を一人ときめて居たのではなく、匂宮とも幾度かの交渉があり、二人の男にそれぞれ愛情や未練を持っています。女の狡猾さからではなく、父を宮に持ったと云う事や、男に寄生しなければ生きていかれなかった時代の、女の悲哀と云うのでしょう。

 なぜ不安に思い、不満を持ったかと云うのは、とくに源氏物語の様に長編の作品となりますと、全編を読み下し、本当の物語を知る事が容易ではない為、源氏物語と云う名は知っていても、内容はついあやふやにしか知らず、映画化したりしますと、映画の物語をそのまま原作の内容と思いこんでしまう人が多いからです。源氏物語を語る人の内に、往々にして映画源氏と混線させている人があるのは、映画の到らしめる功罪ではないでしょうか。

 又、前に映画化された源氏物語でも、淡路の上と云うのが出て来ましたが、性格から考えられるのは、明石の上と女三の宮とを一緒にした人だと思いますが、明石の上と云うのは、御伽草子にある“花世の姫”の内にも、その名を末の栄光をもたらすよい名と、たとえられています。それを女三の宮と一緒にして、光君に背いた女として扱われてしまった事は遺憾でした。

 文が前後して申し訳ありませんが、私が一番お願いしたい事は、歴史にその名をとどめ。不朽の名作と云われる古典を映画化する場合などとくに、原作に忠実であっていただきたいと存じます。それは作者に対する礼儀であり、又、中々読みこなすことの出来ない人に対し、わかりやすく伝えると云う、親切でもあると思うのです。

 浮舟の原作者である北条先生にも、後日お伺い致すつもりで御座居ます。尚、参考の為、私が読みました源氏物語は、谷崎先生のものであり、原作としましたのは、それに基づくものです。

(時代映画57年7月号 読者の映画評より)