私の『ぼんち』は、あんな男じゃない

映画「ぼんち」に文句をつけた山崎豊子

 「シナリオのときから注文したのに・・・私の書いた『ぼんち』は、あんな『ぼんち』じゃありません。えいが『ぼんち』は、あくまで市川崑の『ぼんち』です。あれでは、原作じゃなくて、まるで身売りです」と、えいが「ぼんち」に文句をつけたのは、原作者の山崎豊子さん。映画の出来、不出来うんぬんはよすとして、では、山崎さんのいう「ぼんち」とは。

映画は私が書いたものでない

 「鍵」を作って話題を投げた鬼才・市川崑監督が、今度は山崎豊子原作の「ぼんち」を作り、早くも話題になっている。

 ストーリーはこうだ。喜久治(市川雷蔵)は、船場の足袋問屋のぼんぼん、昔からの古いシキタリがすべてを左右し、そのシキタリによって大人になった男である。母系家族のこの家では、代々が婿養子を迎えているところから、祖母は息子喜久治に女の子を作れといい、シキタリを押しつける。喜久治の嫁も、彼女が選んで押しつけたのに、シキタリに反するという理由だけで、里に帰してします。ちょっとわれわれ戦後の人間には想像もできないエピソードが描かれている。

 喜久治は次々と妾をこしらえ、子どもを作って男の子なら五万円女の子なら一万円払って片をつけてします。片をつけたようでも、血のつながりが、のちにヨリを戻すことにはなるが、たいへん異色な映画である。

 「映画は、私の書いた『ぼんち』じゃありません。市川崑さんの『ぼんち』です。第一、大阪にはあんな『ぼんち』はいませんよ」と、映画の試写会を見た原作者山崎豊子さんは言う。「もちろん、市川崑さんの『ぼんち』として見れば、充分見ごたえのある作品ですけど・・・」つまり、山崎豊子さんが言いたいことは、根本的に「ぼんち」の解釈が違っているというこなのだ。それに彼女は、まだ「ぼんち」の撮影中に撮影所を訪れ、シナリオの不満の箇所を市川崑監督に厳重に抗議している。それが全然改められていなかったのだから、山崎さんの怒りが爆発したともいえよう。

 山崎のさんの不満はこうだ。最後に近いシーンで、鼻水をたらした市川雷蔵のぼんちが、息子の林成年に、「太郎、あのな、ちょっと風呂賃おくれ」と風呂銭をねだる箇所がある。こんなしみったれた、うすぎたない「ぼんち」はありえない。少なくとも小説に書いた大阪の「ぼんち」は力強く、気品があって、華麗な存在なのである。年をとっても、なにか丹頂の鶴を思わせるような気位があるのが「ぼんち」なのだそうだ。それに、ぼんちが銭湯に行くということは考えられない。必ず内湯を使うものだ。また、ラスト・シーンで女中のお時が、「旦那はんは、ぼんぼん育ちでおましたけど、根性のしっかりした男はんでしたんや。船場にお生まれでなかったら、あないに優しいお心を持っておられなんだら、立派な『ぼんち』になれたお人やった・・・」と、つぶやく箇所がある。「なれた」という言葉は「なることができたはず」という意味になってしまって「ぼんち」になれなかったということになってしまう。

 映画芸術と文学に相違のあることは充分知っているから、原作どおりの映画化をしてくれというわけではない。が、根本のテーマを変えられてしまうのは困る。「ぼんち」になりそこねた男を書いたのではなく、「ぼんち」としての理想像を書いたのだから。−ということになる。

映画化する以上は映画の目で

 これに対して、抗議を申し込まれた大映の企画者の辻久一氏は次のように反ばくしている。「風呂銭をねだる箇所、お時が、ぼんちになれたのに・・・とつぶやく二つの問題の部分は、原作の『ぼんち』から、映画作者が読みとった喜久治の性格をもっとつっ込んだ発展の形として描いたのです。喜久治の老年の生活を、多くの女性に接してきた人間の帰結として見ているわけなんです。だから、テーマを変更してしまったというよりも、小説と映画と、それぞれの形式の違いを反映した相違ということになると思います」さらに市川崑監督は、「映画の『ぼんち』は、船場という特殊な環境に生まれた喜久治という個人の人間性の発展を中心とした人間喜劇−つまり、弘子、ぽん太、幾子、比沙子、お福と五人の女を次々と自分のものにしていくが、けっきょくはどんな個性を持った女でも、一個の肉体にしかすぎなかったということを悟る喜久治を描きたかったんです。戦前のあたりまえさが、現在見ればこんなにユーモラスになるということでしょうか。なお、その経過に祖母のきの、母の勢以が重要な役割を果しているのですが、正妻、妾、芸者、仲居、ダンサーと、すべての女性を網羅しているにもかかわらず、原作にただひとつ欠けているものがありますね。それは、娘です。原作には息子ばかりで、娘がでない。母系家族という重大な問題がありながら、娘の心理を知っていないということは、ちょっと気になりますね。まあ、それはともかく、活字と写真の対決なんですから、映画作家としての解釈は自由だと思うんですよ。もちろん、原作は力強くて、気品がある華麗な『ぼんち』を描いて成功したと思うんですが、映画がそれをそのまま描く理由はないと思いますね」と、作家と映画作家という見方の相違をはっきりさせている。つまり、目で読んで、脳で理解する方法と、目で見て受け入れる方法との差なのである。

 だが、山崎さんは、てきびしい。「そんなら、なにも原作・山崎豊子をうたう必要はありません。見受け・山崎豊子より−とでもしたらいいと思いますね。心血そそいで書いた作品が、わずかな金で映画化される。こっちは、活字で書いた作品が、写真で再現されると思うからこそ原作料で満足しているんですけど、イメージを根本からこわされるんだったら、再現するひつようはないと思うんですよ」活字と写真の対決、これは新聞とテレビを比べてみればよくわかることだが、避けられない宿命かもしれない。しかし、その活字と写真の対決以前の「ぼんち」、つまり、大阪育ちの山崎豊子さんのいう「ぼんち」とは、どんな人間なのであろうか。

社長よりぼんちになろう

 「大阪では、良家の坊ちゃんのことを、ぼんぼんといいますが、根性がすわり、地に足がついたスケールの大きなぼんぼん、たとい放蕩を重ねても、ピシリと帳ジリの合った遊び方をするやつには『ぼんち』という敬愛をこめた呼び方をします。そんな大阪らしいニュアンスをもったぼんちは、現在の大阪から次第に姿を消しつつあるようです。それだけに、ぼんちという特異な人間像を、今書き止めておきたいというのが、この小説を書いた私の大きな出発点です」と、山崎豊子さんは、小説「ぼんち」のあとがきに書いていたが、現代の大阪に「ぼんち」がいないという原因の一つには、「日本の民法」問題があるという。個人でそれだけの金を自由にできないということである。たいていのところは、株式会社に変っているし、個人では、税金問題もあって、そんなに湯水のように金を使えない。ほとんどが、社用族。そんなところに、昔のような「ぼんち」が出るわけがない。どんなに遊んでも−という、遊びができないわけだ。

 文化の発展はそういう昔気質の「ぼんち」の出現をさまたげてしまったという。「ぼんち」−それは、ぼんぼんの理想像である。お嬢さんのことを「令嬢」というようなものだそうだ。つまり、呼び名としては存在しても、実際には使われない言葉なのだ。三井ナニガシの令嬢とはいっても、実際に呼ぶ場合には「お嬢さん」ですむ。それと同じで、呼ぶ場合には、「あにぼん」「なかぼん」「こぼん」と区別する。三人以上なら、「あかぼん」「しろぼん」と、色で区別する法もあるそうだ。それはともかくとして、最近、大阪の財界では、「社長になるよりは、『ぼんち』になりましょう」という言葉がはやっているそうだ。つまり、社長は大阪だけでなく、日本全国に何十万人もいるが、「ぼんち」は大阪ですら数少ないからだ。塩野義製薬の社長塩野孝太郎氏が、「塩野義のぼんちだす」と山崎豊子さんに挨拶して、山崎さんを感激させた話もある。

おんなの操作でけへんもんが・・・

 大阪の毎日新聞の前で喫茶店オリオンズを営業している綿谷忠兵衛氏(49)は、「女の操作でけへんもんが、なんで金もうけができまっか」と言う。忠兵衛氏は映画「ぼんち」そこのけの波乱の生涯を送ってきた男である。鳥羽伏見の戦いで大もうけをした先祖枡屋中兵衛から数えて五代目、現在の忠兵衛氏は、大阪旧市内の大地主だった。

「二十四、五のころから遊びに精だしたんワ・・・。それからというもんは極道のかぎりをつくしましたナ。そいで終戦後、一間間口のコーヒー屋のおっさんになってしもうたというわけだす」と述懐する忠兵衛氏の顔には、かげりがない。コーヒー一杯を売ることが無上の楽しみなのだ。「遊んでいたころのワイにはカゲがおました。妾を作り、応召をのがれ、そんなうしろめたさが、人生の裏道をこっそり歩いていたような感じだす。戦後、失うてしもうた財産のことを考えると、なにか寂しゅうなって、世をすねてしもうたような感じというヤツだんナ。ほんまに、この商売にはいった当座かて、出前持ちから始めたわけですワ。毎日新聞の受付では『なんやおっさん、どこのもんや』とどなられるし、ひがんでしもたんや。ワイはゴテぼんや思うたこともあります。せやけど毎日さん(新聞)や皆さんのおかげで、今日までなりまして、ほんとにありがたい思うとりまっさ」

 忠兵衛氏は、さらに言う。「ずいぶん女をこさえてきましたが、ありのままを話せば、ワイは女性の敵や。『ぼんち』のような遊びもずいぶんしてきよりましたよってなあ。しかしなあ、極道尽して、やっとワイの道を見つけたんやから、これからワイは、コーヒー屋のおっさんで進みますワ。人間、なにごとも正攻法で金もうけできるようにならなければダメでんなあ」現在でも忠兵衛氏は名刺を使ったことがない。すべて、顔パスである。「綿谷のぼんち」という顔パスで。そんなところから、山崎豊子の「ぼんち」のモデルというウワサが出たのかもしれない。

 山崎豊子さん自身が、某誌に、「モデルという特定の人物はいない。しいていえば、名まえを出さないという条件で、放蕩の心境を聞いた人が二人いる。一人は大阪某百貨店創始者の御曹子で、放蕩のすえに破産して、今は逼塞している人と、もと大阪川口の居留地一番の地主で、今はコーヒー店を経営している人である。だが、決して、小説の主人公そのものではない。百貨店のもとの御曹子のほうは、その百貨店の前まで来ると、一階、二階、三階・・・五階、六階と、これだけのものを全部、女に入れあげてしまったのかと思い、かえってドカンとあきらめがつくと語っている。地主のほうは働かずにいて、どこからともなく入ってくる金で遊び追われるより、自分がコーヒーをひいて、じかに金をもうけるほうが張り合いができたと、かえって現在の逼塞を喜んでいる」と書いたせいもあって、忠兵衛さんは、モデルだろう、モデルだろうと追い回されて悲鳴をあげたこともある−という。それはともかく、忠兵衛さんに大阪の「ぼんち」らしい気概がみなぎっていることは確かである。

金銭第一主義の大阪

 だいたい、大阪は商人の街である。大宅壮一氏が「阪僑」という言葉を発明したが、近松門左衛門が「死ぬまで金銀を神仏と尊ぶ」といい、井原西鶴が「金銀が町人の氏系図なるぞかし」といっているほど、金銭第一主義である。米車の後押しをしながら、こぼれた米粒を拾いため、売ったお金を元手に財をなした話などは、ざらにころがっている。

 「六十円のコーヒーを売るときには、自分が六十円の気持ちにならなければあきまへん」という綿谷中兵衛さんも、家に帰ればどんなゼイタクな生活をしているのかわからない。一歩、自分の生活になれば、これは他人が口を差しはさむ必要がないからだ。東京のサラリーマンのように、服装だけはパリッとしているが、一歩、家に帰ればボロ長屋−というのとわけが違うのだ。その点、大阪の商人たちは徹底している。遊ぶときにはジャンジャン遊ぶが、仕事になると、なりふりかわまず大車輪に動き回る。どんなささいなもうけにも算盤をはじく。一銭一銭が彼の利益の生命なのだ。

 よく、大阪の商人と喫茶店で話をしていると、なんとなくのんびりしてしまうと、東京の人間は言うが、その間に大阪人は利益の計算を心の中ではじいているのだそうだ。かって亡くなった小林一三さんが「コマうどん」の試食をした時、「うん、こりゃ一升二百円はすツユだ」と言って調理人を驚かせたことがある。原価計算してみるとピッタリ一升二百円だった。つまり、「阪僑」は、常に原価計算をしてくらしているわけなのだ。

ぼんちは、やはり理想像

 だが、金銭第一主義で徹底した大阪というところは、不思議なことに、生粋の大阪人、大阪そのものという人物には、有名人がいないようだ。かって栄えた鴻池家をはじめ、十家の富豪で、今の栄えているのは住友家だけである。だが、この住友家も大阪以外の外から人を入れたために今日の成功をみたのである。

 「大阪三代貸家札」ということわざどおり三代目の代になると、必ずといっていいほど、放蕩のあげくに破産してしまう例が多い。ぼんぼんが文字どおり、ぼんぼん(ちょっと軽べつを含めた言い方)になってしまうわけだが、スケールの大きな地に足がついた根性を持っているぼんぼんが「ぼんち」と呼ばれるのである。どんなに放蕩しても、どこか根性を失わない風格を持っている人間、これが大阪のぼんちの姿なのである。

 「今度の作品についていえることは、りっぱな文芸作品になるか、およそくだらないものになるかのどちらかで、おそらく中間はないでしょう」といった山崎豊子さんの意見に対し、映画「ぼんち」のできぐあいはどうだったのか。三振か?ホームランか?その答は、おのおのの感想をもってみる読者たちの目にゆだねることにしよう。(「週刊女性」61年5月1日号より)