毛利菊枝

1903年11月3日群馬県利根郡沼田町生まれ。本名森キク。
群馬県立高崎高等女学校中退。岸田国士らが設立した新劇研究所に第1期生として入る。その後、劇団喜劇座の旗揚げに参加し、29年喜劇座の「御意に任せて」で初舞台を踏んだ。32年築地座に所属、34年美術史家で夫の森暢氏(もりとおる・故人・大阪工業大学教授)の京都行きに従って退団し京都で創作座の旗揚げに参加したが、37年創作座を退団。戦後の46年、京都で毛利菊枝演劇研究所を発足させ、チエーホフの「白鳥」を発表後、48年くるみ座と改称した。同座は全国でも文学座、俳優座に次ぐ歴史を誇る劇団であり、出身に喜多村英三、沼田曜一、天野有恒、栗塚旭、大原穣子、松村康世、中畑道子らがいる他、
山崎正和氏らの劇作家も巣立つなど日本の演劇界に多大な貢献をした。また、京都大の田中美知太郎氏や劇作家の田中千禾夫・澄江夫妻(いずれも故人)らのバックアップでギリシャ劇やシェイクスピア劇を学び、名舞台を提供。ラジオやテレビでも活躍した。

演出家、俳優として80年ごろまで舞台に立っていたが、近年は高齢のため引退、静かに余生を過ごしていた。60年京都新聞文化賞、75年京都市文化功労者。80年勲四等瑞宝章、83年京都府文化賞、84年山路ふみ子賞功労賞。

01年8月20日、肺炎のため、静岡市内の病院で亡くなった。97歳だった。 

真摯な姿勢が印象的

 大蔵流狂言師・茂山千之丞さんの話 能舞台で新劇を狂言風に演じてもらったり、くるみ座の公演に私が出たりして、舞台をご一緒した。女優として純粋で、生活自体が芝居みたいな真摯な姿勢が印象に残っています。

劇作家を育てた恩人

 劇作家・山崎正和さんの話 京都の演劇の基礎を作られたばかりか私ら劇作家を育ててくれた恩人です。東京で歌舞伎の大看板と共演し、相手をたじたじとさせたこともあり、日本のセリフ演劇に残した功績も非常に大きいと思います。