宮川 一夫
(みやがわ かずお)
1908年2月25日〜

1999年8月7日

本名:宮川一雄

京都市出身

 

『弁天小僧』

 京都実習商工卒後、26年京都日活撮影所入り現像部助手として入社。現像技師、撮影技師を経て一本立ちしたのが35年『お千代傘』(尾崎純監督)。43年(昭和18年)の『無法松の一生』(稲垣浩監督)の美しい映像で高い評価を得て、映画の興隆期から衰退期へと激動の昭和映画史をそのまま歩いた。その間、稲垣浩、溝口健二、黒澤明、篠田正浩監督らとコンビを組み、数多くの名作を手がけ、撮影賞も数え切れない。代表作は『無法松の一生』『羅生門』『千羽鶴』『雨月物語』『近松物語』『炎上』『おとうと』『沈黙』『舞姫』など。85年自叙伝「キャメラマン一代」を出版した。


 黒沢監督との初コンビ『羅生門』(50年)は、日本映画史上初の国際賞となるベネチア国際映画祭金獅子(きんじし)賞を受賞。『雨月物語』(溝口監督)は英国エジンバラ芸術祭で最高賞受賞。『用心棒』(黒沢監督)などでNHK映画賞撮影賞。『おとうと』『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』『瀬戸内少年野球団』などで毎日映画コンクール撮影賞など、受賞多数。78年に紫綬褒章、83年に勲4等旭日小綬章。92年(平成4年)には山路ふみ子文化賞、川喜多賞を受賞。映画134本、テレビ映画8本を撮影。最後の作品は篠田正浩監督の『舞姫』(89年)。

 その他の受賞歴:ブルーリボン賞技術賞『千羽鶴』(52)、芸術選奨文部大臣賞(53)、毎日映画コンクール撮影賞『西陣の姉妹』(52)、日本映画技術賞『近松物語』(54)『夜の蝶』(57)『おとうと』(60)『刺青』(66)『なはれ瞽女おりん』(77)、毎日映画コンクール特別賞『朱雀門』(57)、ブルーリボン賞撮影賞・技術賞『炎上』『弁天小僧』(58)『おとうと』(60)、NHK映画特別賞(60)、NHK映画撮影賞(61・62)、日本アカデミー賞技術賞・撮影賞(78・85)、第10回日本ペンクラブ賞、朝日賞(85)、ピカソメダル(ユネスコ、89)

訃報:羅生門』(黒沢明監督)『雨月物語』(溝口健二監督)など、日本映画の数々の傑作を撮影した名カメラマンの宮川一夫(みやがわ・かずお=本名一雄=)さんが7日午前0時56分、急性腎(じん)不全のため京都市北区の病院で死去した。91歳だった。『羅生門』では、こもれ日を黒白対比の映像で描き、世界の絶賛を浴びるなど、陰影にこだわった白黒の美学の頂点を極めた。遺作『舞姫』(1989年=平成元年)まで134本を日本映画史に残し、逝った。 

 

2月から入院生活

 日本映画を心で撮り続けた最高のカメラマンが、長男一郎氏ら2人の息子、孫3人らに囲まれ、静かに息を引き取った。孫の宮川一平氏(25)によると、5年前から足を患い車いすでの生活を続け、ことし2月から京都市内の病院で入院生活を送っていた。7日昼に意識不明となり、そのまま帰らぬ人となったという。遺作となった篠田正浩監督の『舞姫』以来、10年の歳月がすぎていた。遺体はこの日午前、京都市北区の自宅に戻り、庭の見える居間に安置された。映画関係者が続々と弔問に訪れた。 

 黒沢監督の『羅生門』で、森の中のこもれ日など光と影とのコントラストを、見事なカメラワークで表現し、世界に衝撃を与えた。少年時代から墨絵を習い、風景を陰影でとらえる眼力を鍛えていた宮川さんの感性だった。 

 「監督とカメラマンは夫婦みたいなもの」が持論の宮川さんだが、カメラマンになったのは偶然だった。高校在学中にデザインのアルバイトで、資料用に町の子供の服を写真に撮っていた。現像代が高く、友人のいた日活撮影所で草野球の助っ人をする代わりに、無料で現像をしてもらったことが縁で、卒業後、正社員になった。 

アイデアマン

 アイデアマンでもあり、鏡を使った照明など日本初の手法を発案、陰影を強調し、繊細で美しい日本の情趣を表現した。『羅生門』で黒沢監督は「カメラは100点満点で100点以上」と手放しで絶賛した。溝口監督は「水をまいたアスファルトが、大理石に化けた」と、その映像に驚いた。『悪名』『座頭市』などの娯楽作でも、個性を作品に反映した。 

 カラーの時代を迎えても、アイデアマンぶりは変わらなかった。フィルムの発色部分の銀を残すことで淡い色調を出す「銀残し」の手法を完成。フィルム会社が生産を中止した柔らかい色調のフィルムを海外からかき集め、77歳の時、篠田監督の『瀬戸内少年野球団』を撮った。80歳をすぎてもハイビジョンに関心を示すなど、常に映像の可能性を考えた。しかし「映像表現はメカがどう変わろうが、本質的に変わらない」が口癖だった。 

映画界が目心配

 『影武者』で、白内障、胆のう悪化のため、撮影担当を途中降板した。勝新太郎さんが黒沢監督との確執から同作を降板し話題になっていたが、映画業界では宮川さんの目の症状の方が話題になった。 

 92年(平成4年)の第10回川喜多賞贈呈式では、黒沢監督が「自分が賞をもらった時よりうれしい」と祝福した。純粋で情熱的な人柄が多くの人に愛された。市川崑監督は「カメラを通して監督の心の中に入ってきて、意を消化して、ちゃんと自分の個性を発揮している」と評した。不世出のカメラマンの死は、日本映画のひとつの終わりでもある。 

 葬儀日程
 ▼通夜 9日午後7時から、京都市北区小山堀池町15の10の自宅で
 ▼葬儀・告別式 10日午後1時から、同所で
 ▼喪主 長男一郎(いちろう)氏 

 

1955.01.29 次男坊鴉
1955.09.21 新・平家物語
1957.03.20 朱雀門
1958.01.09 月姫系図
1958.08.19 炎上
1958.11.29 弁天小僧
1960.04.13 ぼんち
1960.07.10 切られ与三郎
1961.06.14 沓掛時次郎
1962.04.06 破戒
1965.02.20 赤い手裏剣
1967.04.29 ある殺し屋
1967.12.02 ある殺し屋の鍵