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2月から入院生活 日本映画を心で撮り続けた最高のカメラマンが、長男一郎氏ら2人の息子、孫3人らに囲まれ、静かに息を引き取った。孫の宮川一平氏(25)によると、5年前から足を患い車いすでの生活を続け、ことし2月から京都市内の病院で入院生活を送っていた。7日昼に意識不明となり、そのまま帰らぬ人となったという。遺作となった篠田正浩監督の『舞姫』以来、10年の歳月がすぎていた。遺体はこの日午前、京都市北区の自宅に戻り、庭の見える居間に安置された。映画関係者が続々と弔問に訪れた。 黒沢監督の『羅生門』で、森の中のこもれ日など光と影とのコントラストを、見事なカメラワークで表現し、世界に衝撃を与えた。少年時代から墨絵を習い、風景を陰影でとらえる眼力を鍛えていた宮川さんの感性だった。 「監督とカメラマンは夫婦みたいなもの」が持論の宮川さんだが、カメラマンになったのは偶然だった。高校在学中にデザインのアルバイトで、資料用に町の子供の服を写真に撮っていた。現像代が高く、友人のいた日活撮影所で草野球の助っ人をする代わりに、無料で現像をしてもらったことが縁で、卒業後、正社員になった。 アイデアマン アイデアマンでもあり、鏡を使った照明など日本初の手法を発案、陰影を強調し、繊細で美しい日本の情趣を表現した。『羅生門』で黒沢監督は「カメラは100点満点で100点以上」と手放しで絶賛した。溝口監督は「水をまいたアスファルトが、大理石に化けた」と、その映像に驚いた。『悪名』『座頭市』などの娯楽作でも、個性を作品に反映した。 カラーの時代を迎えても、アイデアマンぶりは変わらなかった。フィルムの発色部分の銀を残すことで淡い色調を出す「銀残し」の手法を完成。フィルム会社が生産を中止した柔らかい色調のフィルムを海外からかき集め、77歳の時、篠田監督の『瀬戸内少年野球団』を撮った。80歳をすぎてもハイビジョンに関心を示すなど、常に映像の可能性を考えた。しかし「映像表現はメカがどう変わろうが、本質的に変わらない」が口癖だった。 映画界が目心配 『影武者』で、白内障、胆のう悪化のため、撮影担当を途中降板した。勝新太郎さんが黒沢監督との確執から同作を降板し話題になっていたが、映画業界では宮川さんの目の症状の方が話題になった。 92年(平成4年)の第10回川喜多賞贈呈式では、黒沢監督が「自分が賞をもらった時よりうれしい」と祝福した。純粋で情熱的な人柄が多くの人に愛された。市川崑監督は「カメラを通して監督の心の中に入ってきて、意を消化して、ちゃんと自分の個性を発揮している」と評した。不世出のカメラマンの死は、日本映画のひとつの終わりでもある。 葬儀日程 ▼通夜 9日午後7時から、京都市北区小山堀池町15の10の自宅で ▼葬儀・告別式 10日午後1時から、同所で ▼喪主 長男一郎(いちろう)氏
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