瑞穂 春海(みずほ しゅんかい)

1911年3月22日/長野県長野市

善光寺塔頭蓮華院の長男として生れる。長野県立長野中学から姫路高等学校を経て、東京帝国大学文学部を34年に卒業。選考は美術史。全盛期のフランス映画に刺激され、同郷の大監督・池田義信を頼って松竹蒲田撮影所に入社。池田の助監督となり、深田修三につき、渋谷実のチーフをつとめる。40年には監督に昇進、「女だけの気持ち」でデビューする。この第1作が「新人とは思えぬ手慣れた演出力」と好評で、以後も特に傑作はないが、駄作もない安定した力量を認められ、コンスタントにプログラム・ピクチャーを撮り続ける。大船カラーと人柄も合って、43年には「家に三男二女あり」というホームドラマの佳作も発表。同時期に東大を出て松竹に入り、監督になった中村登をライバル視していた。瑞穂の順調な監督生活に狂いが生じたのは「ぺ子ちゃんとデン助」(50年)を監督することになってから。主人公が予想屋をやるという設定にしたため、シナリオの中川隆三と神奈川県下の競輪場に1カ月も通いつめ、もともと麻雀はじめギャンブル好きだったので本物の“競輪狂”になってしまった。ついに、競輪のある日は、ソワソワして仕事が手につかず、午前中撮影をするとなにかと理由をつけて“撮影中止”で競輪場へ行くようになり、スタッフの信用はなくなっり、会社から注意を受けるようになった。宝塚から鳴り物入りで松竹入りした淡島千景で「お景ちゃんのチャッカリ夫人」を成功させると、54年松竹を退社。麻雀仲間で松竹から東京映画に移っていた長瀬喜伴の誘いで東京映画と本数契約。新東宝、東映、大映と、器用に中級作品を撮りまくった。長瀬のシナリオでブラジル・ロケした「リオの情熱」(55年)などもある。大映で「温泉女中」(63年)、「これからのセックス・三つの性」(66年)、「復讐の切り札」を最後に故郷の長野へ帰り蓮華院の住職に納まってしまった。95年6月19日死去。

1962.09.30 殺陣師段平