冬島 泰三(ふゆしま たいぞう)

1901年6月2日/京都府京都

本名:前出小四郎。生家は酒造業。大阪高等工業機械科を中退し、京都大学で機械科の助手をしたが、20歳の頃阪神電車に入社する。文学青年だったので、沿線の鳴尾に住む佐藤紅緑を訪れて師事し、佐藤家の書生をしていた竹井諒と親しくなる。竹井はのちに映画のプロデューサーとして活躍するようになる。24年、師の紅緑は招かれて東亜キネマ甲陽撮影所の脚本部長となり、電車会社のストライキで首になっていた彼は師について脚本部員として入社した。第1作のシナリオ「鉄拳児」は早速映画化され、以後、前出胡四朗のペンネームで現代劇をいくつも書き、京都の等持院撮影所に移って石田民三監督の時代劇脚本を何本か書いた。26年、衣笠映画聯盟に参加し、衣笠監督作品「火喰鳥」の脚本を執筆、このとき初めて冬島泰三と名乗った。衣笠聯盟は松竹と提携していたので、冬島は折から売り出し中の林長二郎映画の脚本をいくつも書いている。そのあと阪妻プロ等を経て28年、松竹下加茂に入社し、助監督の経験なしで監督となって、第1作「夜の裏町」を演出。次いで長二郎主演の「鳥辺山心中」「お嬢吉三」「吹雪峠」「月形半平太」「時勢は移る」「冬木心中」が続く。歌舞伎をよく知る冬島の脚本と演出は、時代劇で巧みに舞台の型や演技や情趣描写を取り入れて成功していた。特に世話物が彼の演出には適していたが、「鳥辺山心中」「冬木心中」がいいのは原作がしっかりしているせいでもあった。30年には傾向映画「赭土」を作り、31年、月形プロで「舶来文明街」を監督した。明治初期の探偵物で一部分トーキーの野心的な演出だった。冬島はこのあと個人プロを転々としてまた下加茂へ戻り、戦後は新東宝、日活、東映で時代劇を作り続け、60年以後はテレビのみ。その後は歌舞伎の紙人形作家として評判になった。81年12月24日死去。

1954.11.01 歌ごよみお夏清十郎