流転有情(五)

 

 子供のない九団次が目の中に入れても痛くないほど可愛がった雷蔵を、なぜ寿海の養子にしたか。それを一口にいうならば、雷蔵の出世を願っての、父としての本当に大きな愛情からであった。

「自分はなんといっても京都の九団次だ。同じ役者にするなら、やはり寿海のような天下の名優のもとにやりたい」

 そう思った九団次の気持ちには一応うなずける。しかし、最初は、名前だけの養子のつもりで話をすすめたのであったが、戸籍もろとも体も一緒に寿海の子供にすると聞いて、第一母親のハナさんが大反対した。

 もともと寿海は

「わしは一代だけで結構、二代目寿海はいらん(実際には本人は三代目、従って四代目とするのが正しい)」

 といっていたが、雷蔵の芸を一目見るに及んではよろめかざるを得なかった。

 ついに白井信太郎氏を正式に仲人として、寿海の養子になったのであるが、これにはいろいろといきさつもあったし、母親はなかなか手放そうとはいわなかった。或る夜、それも真夜中の一時という頃、南座近くの化粧品店祇園屋の表戸を叩く人があった。

 この祇園屋の主人岡本さんは、芸界の顔役であるし、亀坂八十さんと岡本さんの夫人は芸の上で姉妹関係にあり、九団次とは一番親しく親類づき合いをしていた。現在市川雷蔵も、この岡本さんを親のように慕って何かといえば、すぐ相談にもいくという間柄である。

 夜中に戸を叩くので、いま時分誰だろうと思って起きてみると、酔っぱらった九団次であった。

「一体、どないしたんや」

「いや、今家内と大喧嘩してな。わい叩き出されて、いくとこないのや」

 その夜も雷蔵を寿海のもとにやることについて夫婦喧嘩をし、九団次はその末、奥さんに叩き出されて、そこらで一ぱいひっかけて来たのだという訳であった。

 このようないきさつもあったが、寿海の養子となった雷蔵は「白波五人男」の赤星重三郎で竜衣名披露し、家号を升田屋と名乗って、ぐんぐんと売り出していった。九団次が最初思った通りであった。もっとも、寿海のもとへやるまでには、九団次もいろいろとなやみ、中村時蔵との間にも一時話があった。

 時蔵は、雷蔵を見て

「こりゃ物になりそうや。なんだったら、うちで面倒見てもいいぜ」

 といっていた。

 雷蔵も時蔵をよく慕い、時々遊びにいっては、今の錦之助や鯉昇らと、トンボ返りの稽古などして、兄弟のように仲よく遊んでいたのである。その後、寿海のはなしがすすんだので、時蔵との縁はそれまでとなったが、場合によっては錦之助賀津雄芝雀らと義兄弟になっていたかも知れなかったのである。

   

(左から、三代目中村時蔵、萬屋錦之助/中村錦之助、中村嘉葎雄/賀津雄、四代目中村時蔵/芝雀)

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