夫ひとすじに四十五年

去年の十一月、後援会の席で

 「寿海は、仕立て屋の三男坊だった。門閥も血筋もない。歌舞伎で、シロウト出身の役者が出世することは、ほとんど不可能だ。寿海はそれをやってのけた。芸術院の会員にえらばれた。人間国宝(無形文化財)に指定された。むろん、寿海自身の天分も、努力もあった。が、もし、らく夫人という人がいなかったら・・・」今日の栄光はなかった。と武智鉄二氏は、いう。 

 ・・・柳橋の芸者だった。そのころ寿美蔵といった寿海と、恋をした。七年間の長い恋であった。

 大正四年一月五日。おなじ年の三十才どうしで結婚して、それから四十五年のあいだ、ただのいちども、所帯の苦労を、夫に訴えたことがない・・・。

 「けっして楽な暮らしではなかったはずです。その当時の寿海は、貧乏な役者でした。だが、らく夫人と一しょになってから、着物や持ちものは、一流中の一流品、裏方への祝儀なども目にみえてはでになりました」

 ・・・見栄を飾るということ。それが、役者の出世の一つの手段であったと、寿海の親友で、演劇評論家の菱田雅夫氏はいう。

 「いったい、らく夫人は、どんなやりくりで、お金をこしらえているものやらと、私たちは首をひねったものでした・・・」おそらく芸者をしていたころの貯金はもちろん、クシやカンザシのたぐいまで金にかえて、つぎこんだのだろう。

 「大正十二年の関東大震災のとき、寿海の家は焼けのこった。すると夫人は、弟子たちに大八車をひかせて、家財道具や衣類いっさいを、罹災したごひいきさんにくばって歩かせたのです」

 ・・・無一物になって、「ええ、もうみなさん裸になったのですから。私どももついでに」と笑っていた。そういう気っぷのよさが、寿海の人気をささえた。

 やがて、寿海が松竹に反旗をひるがえして、勘三郎や海老蔵とともに東宝劇団に走ったときも、終戦後、東京歌舞伎から関西へ都落ちしたとき(昭和二十三年)も。

 ・・・夫人は、寿海の手足になって、けんめいに働いた。住む家もなく、大阪歌舞伎座の楽屋で雨露をしのぎながら、ひたすら、夫が日本一の歌舞伎役者になることだけを願った。

 「芦屋の私の家に、奥さんがみえられて、ぜひ寿海を男にしてくれとたのまれまして」その真剣さにうたれて、後援会をはじめたようなわけです(寿会・幸谷吾太郎氏)

 ・・・後援会の組織。関西芸団の人びととの交際。その金策。無口で、芸のこと以外は、子供のように無知な寿海に代って、らく夫人は、奔走した。

 九貫目(=33.9kg)と少ししかない、やせた体にムチ打ち、持病の心臓内膜炎に苦しみながら、「夫に芸道以外の苦労をかけまい。舞台ひとすじに生きてもらうために・・・」いのちがけだった。