少し話が前後しますが、デビュー2年目の1961年、僕は映画会社の大映と準専属の契約を結びました。歌手としての人気に着目されたのでしょう。

 契約のため京都撮影所を訪れた時のこと。何と看板俳優の市川雷蔵さんが玄関で迎えてくれたのです。「君が橋君か。ここは僕の家のようなものだ。何も心配しなくていい」と言葉をかけてもらい、胸が熱くなったのを覚えています。

 《市川は歌舞伎界から映画界へ転身。55年の『新・平家物語』に主演して注目を集めると、『炎上』で数々の映画賞を受賞した。勝新太郎とともに大映の屋台骨を支えるスターとして君臨したが、69年、37歳の若さで亡くなった。》

 僕のヒット曲を基にした61年4月公開の『おけさ唄えば』という歌謡股旅映画で雷蔵さんと初共演。雷蔵さんは僕を弟のようにかわいがってくれ、雑誌で対談した時には「今度、兄弟として共演しよう」と言われたこともありました。だから、同年12月公開の『花の兄弟』で実現した時には、本当にうれしかったですね。

 元々武道に心ひかれ、空手やボクシングを練習していたこともあり、立ち回りは好きでした。撮影所で殺陣の練習をするのは楽しく、もしかしたら歌より性に合っていたかもしれません。時代劇は人物造形がわかりやすく、比較的すんなり演技に入っていけたのもよかったと思います。自分の座長公演でも時代劇の演目を披露することが多いのですが、この時期の映画での経験は大いに役立ちました。

 

 

  読売新聞 04/22/24