大きい存在だった雷蔵さん

『破戒』(市川崑監督)のクランクイン前に、実は雷蔵さんとは撮影所でお会いしましてね。そのときの第一印象は、よけいなことは一切おっしゃらず、とっつきにくい人、なんかコワイ人という感じでした。

初めのうちは「おはようございます」「お疲れさま」のひと言、ふた言でムダ口をきけない人でしたね。ま、近寄りがたい人でもありました。

ところが、だんだんおつき合いさせていただくうちに、あったかみのある人だということがわかってきましてね。さりげない人柄を、今も忘れません。たとえば、親愛の情を表わすのに、その表現の仕方が子供ぽかったり、無邪気だったり。よく親しい人に、背中を強くポンと叩いたりね、わざと怒ってみたり、怒鳴ったり、それは天真爛漫でした。ダジャレや毒舌もよく言うほうで、それでいて仕事には一段と厳しいお方でしたね。とっても、今は寂しいです。よけい、雷蔵さんがいらしたらと思うと。いい思い出がたくさん、私の中に残っています。

私がデビューしてまもなく、『忍びの者』(山本薩夫監督)のセットで、乗馬の稽古をしていたときです。私、不注意にも、落馬して肩の骨を折ってしまったんです。病院へ運ばれ、診断の結果、全治二週間、私、てっきりこれは代役をたてられると観念しましてね。それは残念で、泣くに泣けない気持ちでした。スケジュールが詰まっていましたからね。ところが−雷蔵さんは私に黙って、監督に「藤村君の退院まで二週間待ってくれ」と言われたそうです。この話はずっと後になって、ある人から聞いたんですが、自分から恩着せがましくいわないで、お見舞いにきてくださったときも「どうや、安心して治しなや」とやさしい言葉をいただきました。

雷蔵さんって、そんな人でした。そう、亡くなる前の、最後の『眠狂四郎』のとき、そのころ、私は胃の具合が悪くて、仕事も休みがちだった。雷蔵さんは私を見つけると「お志保さん、病上り同士でまた狂四郎だね」って言うの。夜間撮影は(体のため)やめていたんですが、撮影が追い込んできたあるとき、夜更けまで(撮影が)かかった。ちょうど、ライティングのみなさんが待ってるときに、私、貧血になってね。ガタガタ体がふるえて毛布にくるまっていた。
雷蔵さんは、スタッフに「早くしろ」とおっしゃって私をかばってくれた。ご自分のほうがずっと具合悪かったのね。「志保ちゃん、体は気をつけなくちゃあ、あかんよ」そう、私に気を遣ってくれた、よもや、そのとき、雷蔵さん自身が重い病気と戦っているなんて、知らなかったんです。ええ、このセットで「さよなら」をしたのが最後でした。その後、病気のことは教えられなかったし、お見舞いのこともとめられていて。『狂四郎』が最後に・・・。

こないだテレビの深夜放送で『刑務所(むしょ)破り』(池広一夫監督)をやっておりまして、私、何気なく見ておりました。雷蔵さんの代役に東映から松方弘樹さんがお出になった作品です。実は、この撮影中に、雷蔵さんの死を知らされたんです。テレビをみていて思わず、あのときの震えがまた私を襲いまして。あのとき−どんなに頑張ろうと思っても、震えがガタガタして、とまらない。化粧しても涙でのらない。そのショックはたとえようがありませんでした。その日(昭和四十四年七月十七日)私はだらしがないですけど、撮影できる状態でなく、中止してもらった。その四、五日、意気消沈しておかしかったですわ。とくに、池広さんは雷蔵さんとは親しい友人でしたから、なおのこと、監督と顔を見合すと、また涙・・・。

それに、不思議なことに、亡くなる二日前に、雷蔵さんの夢をみたんです。それも狂四郎スタイルでスーと現われては消えて。何もおっしゃりませんでしたけど。「お元気になったのかしら」そう、そのときは心配した。

夢枕ってあるんですね。この話をスタッフにしたら、亡くなる数日前に、スタッフの何人かが、やはり雷蔵さんの夢をみたんですって、不思議ですね。

映画でごいっしょしてたときより、今の方がとっても、雷蔵さんに魅力を感じます。あの頃は無我夢中でしたもの。晩年にやっと冗談をいえる仲になったぐらいで、私にとっては大きな存在でした。

こないだ、NHKの銀河ドラマ「影は崩れた」で加藤嘉さんと共演したとき、つくづく加藤さんがいうんです。「あなた、アップの芝居になって、そのセリフをいうときの表情や、セリフの間が、雷蔵さんに似てきたね」そういえば『破戒』以後、晩年にかけてほとんどごいっしょさせていただきました。加藤さんにそういわれて、心からうれしい。女優として、自分の体の中に、いろんな形で雷蔵さんが、残っています。(ミノルフォンレコード日本映画名優シリーズ「市川雷蔵」解説・雷蔵を偲ぶより)