もっと聞きたい

支局長からの手紙

 名張の情報を全国に広めるため、市民グループが年4回製作している雑誌「四季 どんぶらこ」の最新(第11)号に、気になるエッセーがありました。名張市に住む映画監督、田中徳三さん(78)の「俳優」です。

 「この一、二年の間に撮影所で育った俳優がバタバタといなくなった」。書き出しから少し寂しい調子です。自らの作品に出演した勝新太郎のほか、萬屋錦之介、三船敏郎らの名前をあげ続けます。「昔は、日本映画界に撮影所というものがあった。そこには飯より映画が好きという活動屋達が生き生きと映画を作っていた」

 プロデューサー、監督、助監督、小道具、大道具、衣裳のおじさん、おばさん、大部屋といわれる下っ端の俳優さん達 - 。「撮影所は、昔は夢の工場であった。美男美女がいて人々に夢を送り続けた」と振り返ります。「勝新太郎も、三船敏郎も、錦之介も、そして撮影所も消えてしまった」。ため息が聞こえてきそうです。

 「“昔は良かった”。こんな想い出を綴る私も、考えてみれば、だんだん老いてきたようである」。そしてこう締めくくります。「しかし古き良き時代の撮影所を知っている人間が、一人位昔を偲んでも、それはそれで良いと私は思っている」

 田中さんは終戦をスマトラ島(インドネシア)で迎え、1946(昭和21)年に捕虜生活を終え帰国し、48(昭和23)年に大映京都撮影所に入社しました。以来、半世紀以上も映画作りにかかわっています。

 黒澤明監督の『羅生門』(50年)、溝口健二監督の『雨月物語』(53年)、市川崑監督の『炎上』(58年)などの作品に助監督として加わりました。監督は『化け猫御用だ』(58年)から。勝新太郎の代表作の一つ『悪名』(61年)、市川雷蔵の『眠狂四郎殺法帖』(63年)など、娯楽作品を中心に49本に上ります。現在はフリーの立場で、テレビ映画の撮影や芝居の演出などにも携わっています。

 どのような心境でエッセーにしたのだろう。直接、うかがいたくなり、自宅を訪ねました。

 全国の映画館の入場者数が、全盛期より大幅に落ち込んでいる現状は、華やかな時代を知る人にとっては耐えられないのではないか。「深い意味はないんです。思いつきで書いただけ。」先入観は空振りに終わりました。「映画館を出た観客の胸に、何かを残したい。見て楽しんでほしい。そう考えてやってきただけです。」穏やかな口調で語ります。「自分の作品でも、ビデオで見たくありません。暗い映画館の中で、大きなスクリーンでなければ、作品の価値は半減してしまうんです」

 巨匠と称される監督は、どのように作品に取り組み、役者や助監督らを育てていったのだろう。田中さんと親交の深かった勝新太郎や市川雷蔵ら、役作りにかけた俳優の姿を知りたい。最盛期の撮影所の熱気は?構想からスクリーンに映し出されるまで、いろいろ曲折もあるんだろうな。メモを取っているうち、聞きたいことが、どんどんふくらんでわくわくしていきます。

 「田中さんを通してみた映画作りにかかわるもろもろのことを、連載記事にしたくなりました」「古い話を読みたい人なんていないでしょう」「立ち会った人しかわからないその場の空気や息づかい、古き良き時代をのことを、映画ファンでなくても知りたい人は多くいるはずです。少なくとも、私はそうです。ぜひ教えてほしいのです」「いいですよ。いろいろなエピソードも紹介しましょう」。快諾していただきました。

 かくて、田中さんのインタビュー記事を近く始めます。ご期待ください。

(毎日新聞名張支局長・小泉健一)