旅は気まぐれ風まかせ

1958年4月16日(水)公開/1時間19分大映京都/白黒シネマスコープ

「流れ星十字打ち」(渡辺実/林成年・春風すみれ)

製作 酒井箴
企画 浅井昭三郎
監督 田坂勝彦
脚本 小国英雄
撮影 武田千吉郎
美術 内藤昭
照明 島崎一二
録音 海原幸夫
音楽 小杉太一郎
助監督 西沢利治
スチール 浅田延之助
出演 浦路洋子(お絹)、根上淳(三次・実は大前田英次郎)、三田登喜子(お粂)、若松和子(お常)、井沢一郎(豆腐屋伍兵衛)、和泉千太郎(磯吉)、杉山昌三九(林甚左衛門)、本郷秀雄(亀助)、田崎潤(雁鍋の清六)、葛木香一(仏の仁兵衛)、太田博之(太郎吉)、原聖四郎(米屋の安造)、玉置一恵(法印大五郎)、羅門光三郎(問屋場の仙右衛門)、伊達三郎(政吉)、尾上栄五郎(久五郎)、三船浩(唄)
惹句 『名剣客の一人息子と大親分の次男坊が身分をかくして旅に出た』『江戸っ子祭につゞく明るく楽しい時代劇』『おひかえなすってではもう古い股旅物語も、これなら現代人にピタリの面白さ

★ ものがたり ★

 源太という旅人が、三州無宿三次をつかまえて弟分にしてくれと言った。彼は手品がうまかった。その晩、泊った追分宿の仁兵衛の家で、早速手品を使って金を出し、酒を買わせた。仁兵衛が老齢で、さびれた一家に同情したのだ。その娘お絹は弟の太郎吉を堅気にしようと、自分は男の装いで家を支えていた。

 一方、大前田英五郎が兄に跡目を譲るため家出をし、乾分たちが彼を探し求めていた。仁兵衛の元の乾分が問屋場の仙右衛門という新興ボスの盆ゴザを預る賭場へ、三次の頼みで、源太は乗りこんだ。得意の手品で、金をかっさらい、帰ってきた。その復讐に彼らが集っている宿へ、またまた三次におだてられた源太は話をつけに乗込んだ。彼らが斬りかかろうとしたとき、源太はとっさに例の英五郎になりすまし、意気高らかに引き揚げた。皆、あきれた。

 法印の大五郎も挨拶にきた。お絹はますます彼を好もしく思った。--その夜、源太と三次は夜逃げしようとした。が、土間に仙右門の果し状が・・・。お絹が気がつき、仁兵衛らと河原へ駈けつけたとき、源太は三次に助けられて、仙右衛門らと闘っていた。大五郎から知らせを受けた英五郎の乾分雁鍋の清六らも加勢し、悪人は滅びた。三次は実は英五郎だったのだ。また、源太とは士族の息子、やはり同じ事情で家出をしていたのだ。源太は呼びすがるお絹やその弟の前で、一世一代の大手品をした。三度笠と合羽を人型に残したまま、どこかへ消えて行った。

 

旅は気まぐれ

作詞:横井弘 作曲:林伊佐緒 歌:三船浩

      一、

笠が並んだ 三度笠 
浮世街道 ぶらぶらと
「頼りにしてるぜ」 「合点だ」
旅は気まぐれ トコ 風まかせ
仇な蝶々も ついてくる

       ニ、

やくざ修行は 乙なもの
飯はくわねど 高いびき
「一杯いこうか」 「待ってたぜ」
旅は気まぐれ トコ 風まかせ
泣いてねむれぬ 娘がふえる

            三、

意気がとけあう 青空に
山の煙も はればれと
「それじゃおさらば」 「達者でナ」
旅は気まぐれ トコ 風まかせ
先は草鞋も 知らぬそな

いかさま道中

作詞:横井弘 作曲:林伊佐緒 歌:三船浩

  一、

四角四面の 武家ぐらし
スッチャン チャラリコ 柄じゃない
道中双六 身の軽さ
ズント いい目を 
ヨーホ ホイホイ 出してやろう

  ニ、

賭場のかけひき 喧嘩なら
スッチャン チャラリコ 唄まじり
野暮を言うよで 済まないが
情ばかりが 
ヨーホ ホイホイ チョイ苦手

  三、

惚れた 惚れたの 出まかせに
スッチャン チャラリコ 駒が出た
可愛いあの娘の 目もとには
手品さばきが 
 ヨーホ ホイホイ ついにぶる

  四、

のこる未練を 振りすてて
スッチャン チャラリコ またも旅
ままよ 男と 駆け出せば 
浅間はおろか 
ヨーホ ホイホイ 身に沁みる

三船浩 みふね ひろし(歌手) 2005年7月8日死去。享年75歳。58年に日活映画「赤いランプの終列車」(岡田真澄主演)、「男のブルース」(三船は56年に発売したこの歌でデビュー)に出演。主題歌も歌った。大映の「旅は気まぐれ風まかせ」の主題歌(「旅は気まぐれ」)やTVの「月光仮面」の主題歌も歌っている。

小国秀雄 おぐに ひでお(1904年7月9日 - 1996年2月5日) 青森県八戸市出身。白樺派の影響を受け、武者小路実篤主宰の新しき村に参加する。1927年に日活太秦撮影所に助監督として入社。その後、脚本部に転属する。1933年に『モダンマダム行状記録』でデビューする。それから日活多摩川撮影所、東宝を経てフリーランスとなる。東宝に居た頃は、娯楽作品の脚本に手腕を奮って、ドル箱脚本家として活躍する。戦中のマキノ正博監督の映画脚本を担当したり、黒澤明の脚本チームのまとめ役になるなど脚本界でも重要な位置を占めていた。1966年 番組制作会社C.A.Lの役員に就任。かつては「日本一脚本料の高い脚本家」として知られていた。100万円で一軒家を買えた時代で、小国の脚本は一本につき50万円もしたという。

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