好色一代男

1961年3月21日(火)公開/1時間32分大映京都/カラーシネマスコープ

併映:「この青年にご用心」(井上芳夫/藤巻潤・弓恵子)

製作 永田雅一
企画 鈴木火(晰也)成
監督 増村保造
原作 井原西鶴
脚本 白坂依志夫
撮影 村井博
美術 西岡善信
照明 岡本健一
録音 大角正夫
音楽 塚原哲夫
助監督 渡辺実
スチール 西地正満
出演 若尾文子(夕霧太夫)、中村玉緒(お町)、船越英二(月夜の利佐)、水谷良重(吉野太夫)、近藤美恵子(高尾太夫)、浦路洋子(お園)、阿井美千子(お杉)、中村鴈治郎(夢介)、中川弘子(若い尼)、大辻司郎(勘九郎)、中村豊(長次郎)、藤原礼子(お梶)、真城千都世(山の女)、見明凡太朗(但馬屋の支配人)、菅井一郎(春日屋)、島田竜三(荒岩大助)
惹句 『女は抱くもの口説くもの女体遍歴に命をかけた男の一生』『世界に誇る好色文学西鶴の名作に雷蔵念願の体当り

◆ かいせつ ◆

江戸文学の最高傑作である井原西鶴原作の映画化。主人公世之介のあくなき女遍歴を通じて、香り高いエロティシズムの中に当時の庶民生活を描く。

 

 絢爛たる元禄期を背景に世之介のあくなき女体遍歴を描く『好色一代男』は、井原西鶴の名作として知られていますが、大映では、市川雷蔵主演で、美しい色彩により製作しております。

 足掛け四年の念願かなった市川雷蔵は世之介になりきって変化に富んだラブ・シーンを次からつぎへと展開しようと、色の道研究に余念がありません。フレッシュな感覚の時代劇に仕上げようと演出には鬼才増村保造監督、脚本には白坂依志夫、撮影には村井博の現代劇の新鋭トリオが起用され、初の時代劇に意欲を燃やしております。

 一代の放蕩児として女から女へ、やわ肌の中に永遠なるものを求めてやまなかった世之介の半生を、ゆたかなエロチシズムの中に、強烈に、しかも面白く描きだそうとしております。

 スタッフも製作に永田雅一、企画に鈴木火成、脚本に白坂依志夫、監督に増村保造、撮影に村井博、録音に大角正夫、音楽に塚原哲夫、美術に西岡善信、照明に岡本健一、編集に菅沼完二と、ベテランが顔を並べております。配役は市川雷蔵の世之介を中心に、若尾文子の夕霧太夫、中村玉緒のお町、水谷良重の吉野太夫、近藤美恵子の高尾太夫、浦路洋子のお園、阿井美千子のお杉、藤原礼子のお梶、中川弘子の尼僧、真城千都世の百姓の女など、多彩な女優陣の他、世之介の父夢介に中村鴈治郎、遊び人月夜の利佐に船越英二、悪友勘九郎に大辻司郎、長次郎に中村豊、浪人荒岩大助に島田竜三、春日屋の主人に菅井一郎、但馬屋の江戸店支配人に見明凡太朗らのベテランが適役に起用されております。(大映京都作品案内より)

★雷蔵を取り巻く女たち★

 大映京都でクランク中の『好色一代男』は、増村保造監督のテンポの早さ、せりふの早さといった、時代劇の約束ごとを気にしない演出に、京都の女優たちはドギマギし、ただ一人ニヤニヤしているのが世之介になる市川雷蔵。四年越しの企画実現と、美女とたわむれる毎日のセットに「男みょうりにつきるよ」とあごをなでている。ところで、彼を取り巻く女たちは。

多情さ表現に苦心

@阿井美千子は三十後家のお杉。「三十女のあつかましさと多情さをっていわれてるんですけど、どうしたら出るのかしら」日ごろは品行方正で知られる彼女とあって思案顔。

ぐっとくるお色気

Aなにごとも「商売。起請文に血判押すのも遊びのうちよ」とちゃっかりした吉野太夫になるのが水谷良重。例のハスキーボイスのお色気に雷蔵「グッときそうや」と喜んだのもつかのま、愛する夫の白木秀雄に毎夜、電話していると聞いて「なるほどー」

愛情一途の純粋型

B吉原一の美女ながらも、落ちぶれた船越英二だけに愛情をささげるのが高尾太夫の近藤美恵子。二人をとりもつための五百両がもとで雷蔵は勘当されるが、彼女は「私だけが純粋な女みたいでごめんなさい」

だれだってフラリ

C「世之介でなくてもフラリとしますよ」と雷蔵にいわしめた中川弘子、見かけは尼さんだが実は遊女。初顔合わせ雷蔵ときわどいラブ・シーンをやらされててれ気味だったが「増村先生は主人(このシナリオを書いた白坂依志夫)と友人だからよく知ってるし、思ったより気楽にできました」と雷蔵の顔をみてニッコリ。

自殺する哀れな女

D北国の漁師町のメカケだったが流浪中の世之介と命がけのかけ落ちのすえ、追手に輪かんされて自殺する哀れな女お町になる中村玉緒「こんなきたないかっこうなのに雷蔵さんに足をなめさせたりしてー。でも、毛ズネがザラザラして顔が痛かったなんて、ひどいわ、雷蔵さん」

初の遊女スタイル

E夕霧太夫になる若尾文子は初の遊女スタイルに、メーキャップは能面的だが衣装のデザインはグッとモダンにして『お嬢さん』で見せた“デザイナーの素質”を生かしている。増村監督、雷蔵ともに心やすいだけに余裕たっぷりだが、雷蔵との濃厚なラブ・シーンに苦心の着付けが乱れてしまい「アラ、アラー。でも、世之介の最後の女としてはこれぐらいがまんしなければね」

鼻がバカになる

さて、雷蔵「女の人って、それぞれににおいが違うんでビックリしたよ。世之介は三千三百人とも関係があったというのやから、女護ケ島へ逃げるころは鼻がバカになってたと違うやろか」

 

 

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◆ ものがたり ◆

 但馬屋の伜世之介は父親夢介の心配をよそに、数々の女遊びに夢中だった。特に遊女吉野太夫とは起請文を交すほどの深い仲。あまりの伜の放蕩にたまりかねた夢介は、豪商春日屋の娘お園との縁組を進めるが、お園にも意中の男があるのを知った世之介はそれをぶちこわしてしまう。

 ついに世之介は勘当代りに江戸の出店へ修業に出された。だが彼は江戸に着くや支配人をだましてのしたいほうだい。通人月夜の利佐の手引で吉原一の高尾太夫に会うが、利佐と高尾の愛情を知って気前よく身請けしてやる。ついに世之介は勘当を申渡された。申訳にもと頭を丸めた世之介だったが、寺でも彼の浮気はおさまらず、寺を追放される破目となる。その世之介を慰めるのは色比丘尼であった。

 世の中のがめつさをいやというほど知らされた世之介は流れ流れて北国の漁師町へ。網元の妾のお町にいい寄るとお町はころりと参ってしまう。だが駆落ちをはかった二人は、たちまち追手に捕えられ、世之介は半殺しの目に会った。それから数年、今は私娼のヒモになり下がった世之介は田舎大尽のお供で旅から旅へ。

 今は姥桜の吉野太夫と再会したものの遊女のまことは金だとあしらわれ世之介は唖然とする。久しぶりに両親に会おうと但馬屋の前に来ると、父親が臨終のまぎわ。夢介から三つの遺言を申渡された世之介だったが、彼はニベもなくはねつける。このショックで両親は相ついで死んでいった。 

 今や但馬屋の当主となった世之介は思うがままの女遊び。評判の夕霧太夫を大金をつんで自分のものにしようとする。この世之介の放蕩ぶりに役所は冥加金を申しつけるが、彼はそれをハネつける。ために但馬屋は財産没収。いち早くそれを知った世之介は夕霧と共に日本脱出をはかるが、途中役人に襲われ、夕霧は亡くなった。どうしようもない怒りを矢に向ってぶちまけた世之介は、好色丸に乗り、波のユートピアに向って船出するのだった。(キネマ旬報より)

好色一代男

北川 冬彦

 これは、井原西鶴の「好色一代男」のパロディである。

 もしも、西鶴について、ことに「好色一代男」についてくわしい人が、この映画と原作とを比較しながら一文をものしたならば、さぞかし面白いエッセイが出来上るだろうと思われる。例えば、敗戦直後に死んだ小説家の武田麟太郎に書かせたならば。かれは西鶴に打込んでいたし、それに映画に対しては、なかなかの鑑賞眼をもっていたのであったから。また、暉峻康隆のような西鶴学者がそれを書いたらと想うのである。西鶴について勉強していない筆者にそれが出来ないのは残念である。

 ところで、これは西鶴の「好色一代男」のパロディ化にはちがいないが、主人公の世之介(市川雷蔵)の好色態度が浅薄すぎるのが、何より、このパロディを極端に卑俗化したと想えた。世之介が、女はいいものだ、かわいいものだ、女と寝るのは天国だと、女の味方して、自分の命さえかえりみない、という人生観はよしとしても、女から女へ渡りあるく好色振りの描き方は、さばさばしすぎて、まるで捨て切っては捨てるチャンバラ調であるのは感心しない。五十四歳まで、たわむれた女三千七百四十二人というなかで、その代表としてえらび出された吉野太夫、おちぶれた武士の妻、若い尼、漁師の網元の妾、夕霧太夫などである。西鶴の「好色一代男」八巻は、短編小説の連載のようなもので、長編小説として主人公の性格が一貫されていないのが欠点であると言われているようである。この映画では主人公世之介の性格というようなものは描かれているとは想えはしないが、しかし、世之介好色態度は、浅薄ながら一貫され、短編の連続の感からは、まぬがれている。

 この点は、シナリオを読んだわけではないが、映画から見て、脚色の白坂依志夫の手柄といっていいであろう。一人一人の女をめぐっての世之介のフザケたものだが、金権、権力への反抗があるという見どころはある。例えば、豪商春日屋の娘お園との縁組の場合、仲介者が晒首になったり、漁師町で、捨子がありその犯人を探索するため、役人が漁師の女房達の一人一人の懐に手を入れ、乳房の具合をたしかめたり、父親の臨終に際しての厳格な遺言に対し、一一、ノーと否定したり、いろいろと面白いことは面白い。

 たしか、父に勘当されて頭をまるめ(ここのところよく頭などまるめる気になったのが合点が行かないが)寺にいるとき、望遠鏡で、垣から、どこかの女房のたらいで湯あみするとこをのぞくあたり、それから、網元の妾とかけおちして、関所でつかまり、世之介が山の中で百姓が何かを掘っているので追い散らし、見れば、それが恋人の妾の埋葬であったりするところは、原作にあったような気がする。

 また、月夜の利佐(船越英二)のために、はだかで樹にしばりつけられ折檻されている。吉原一の高尾太夫を身請してやるところも原作にあったような気がする。はじめに書いたように、この映画のどこが原作にあるところか、どこが白坂依志夫がつけ加えたところか、筆者にははっきりしないのが残念である。

 ともかく、脚色者白坂依志夫が、東宝の『お姐ちゃんはツイてるぜ』のアチャラカ調で脚色しているフシは十分見受けられるし、監督者増村保造の才気を濫用した感があり、(ことに、根本的欠陥と考えられる主人公の扱いが浅薄なのは白坂よりも増村の演出に責任があると想われる)西鶴の「好色一代男」をパロディ化する意図は面白いことではあったが、パロディ化に際しての脚色者、監督者、わけても監督者の思考の浅さから、せっかくのパロディ化もアチャラカ化されて終ったうらみが濃厚である。

 この「好色一代男」の映画化は、亡き溝口健二がやる予定で、コンビの依田義賢のシナリオがすでに出来上っていたのに、それが白坂依志夫に変ったと、聞くが、溝口、依田調のシナリオでは、増村としては使いにくいにちがいなかったことは想像に難くはない。溝口、依田の深刻なリアリズムには歯が立たなかろうが、そこを押して見るのが増村には楽になったろうに、と筆者には考えられるのだが。

 増村の演技指導に因ることは明かだが、この作品における市川雷蔵の演技はゼロといっていい。すぐれていたのは、おちぶれた月夜の利佐の船越英二と臨終の中村鴈治郎であった。興行価値:変った狙いをもった大映京都の異色時代劇だが、封切成績はのびなやんだ(キネマ旬報より)

 市川雷蔵といえば、虚無感漂う無頼の徒、眠狂四郎(この名前を考えつくだけで、柴錬はスゴイ!)シリーズが代表作だ。しかしお若い皆さん、雷蔵の役者としての懐の深さを知るには、軽〜くヘラヘラと演じる明朗活劇や、目ばり化粧を落した現代文芸作品も観て欲しい。耽美的な世界がこのうえなくハマるのに、頭クルクルパーのバカ殿も似合うなんてスターは、滅多にいないもの。だいたい耽美系の役者というものは、それ一筋に本人も周りも固まりやすく、バカを演じる柔軟さも頭の良さもない人が多い。雷蔵のすばらしさはジャンルを選ばず、何を演じても一級品というところだ。逝去26年にして今なお雷蔵人気は衰えず、その作品は色あせることがない。本物だけが成し得る、偉業だと思う。

 今回のRAIZO’95(市川雷蔵映画祭)で私がお奨めするのは、キュートすけべ味の雷ちゃんだ。江戸文学の最高傑作といわれた井原西鶴の「好色一代男」を映画化したもの。但馬屋の主人の、いかにも関西風なドケチ商人ぶりは、冒頭のシーンで説明される。家に帰ってきた彼は、番頭の出迎える廊下に落ちた一粒のごはんを見つける。彼はそれを指先で拾って、クドクドと皆をしかりつけた後、「もったいない」と言って食っちゃうんである。そのアップの顔が、芯からドケチでスゴかった。雷蔵扮する一人息子・世之介は、金銭感覚まるでなしでどうしようもない女好き。女なら貧乏長屋の人妻から尼さんまで、なんでもオッケーの色男だ。女と見ると、「奇蹟や、天女や、弁天さまや」と犬のように女の足元にひっからんでゆく。「日本中のおなごを、よろこばしてやりたいんや」とお相手した数は、3333人。西洋の色事師ドンファンよりも多いのだから、ニッポン、チャチャチャである。

 とにかく雷蔵のあっけらかんとした放蕩ぶりと、女体まっしぐらぶりが見ていて楽しい。町役人、商人、侍、庶民、周りが虚栄心やつまらない仕来りできりきり舞いしているのに、世之介は女とほおずりしながら「あー、幸せだ」「私も幸せ」「もっと幸せ」なんていちゃいちゃしている。平和そのものなのだ。ここまで突き抜けて能天気だと、人生の高みに到達した哲学者と同じだと思えてくる。それを無意識でやってる天然のアホだとしても、やったもん勝ちの世之介である。ラストシーンで国外脱出を図る世之介の船の吹き流しが、女たちの腰巻きでできているのが最高だ。(石川三千花「勝手にシネマ」2 世界文化社刊より)

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