僕の自叙伝-映画入りまで-@

くるしみをのりこえて映画にとびこんだ雷蔵、これはその半生です

 僕はまだ二十四歳です。昔流に人生五十年といったところで、まだその半分もいっていないわけです。その僕に自叙伝をかけというのですからいってみれば無理な話です。が、このほんとうに浅薄な人生経験で、もっともくるしかったこと−養父を歌舞伎の世界にのこして映画入りした「親不孝もの」の記録をつづろうと思うのです。

つくし会のころ

 終戦の年、勤労動員で穴ほりばかりをさせられる中学校の生活がいやになって、実父(九団次)の楽屋がよいをするようになったころ、僕も父とおなじ世界に入ろうと考えるよになりました。当時すでに、子供のころから知っていた扇雀、鶴之助、弥太郎たちは歌舞伎の若手として舞台にたっていました。その若々しい舞台姿に魅力を感じた僕は、ひかれるようにその世界に入ってしまい、その翌年、二十一年十一月には大阪歌舞伎座「中山七里」で初舞台をふんだのです。無我夢中でつとめた女役でしたが、あまり好評ではなかったようでした。

 翌年、武智鉄二先生を中心に、関西歌舞伎の若手があつまって、歌舞伎再検討という意味で、実験劇場をひらきました。武智先生の三ヶ月もかかるきびしい習練の結果、非常に好評で、新しい歌舞伎のゆきかたとして注目をあびたようでした。

 一方、こうした僕たちの意欲的な動きは、やがて扇雀、弥太郎、鶴之助たちと「つくし会」という勉強会をつくることになり、明日の歌舞伎は僕たちの手で・・・と活発にうごきだしたのです。と、そのうち名古屋の御園座で「修善寺物語」を上演することになりました。指導をうけたのが市川寿海、ていねいな指導をうけ、僕はことの外ほめられ褒美までいただいたのでした。父、寿海が僕を意識しはじめたのはこのときだったようです。