『若き日の信長』をやるにあたって、舞台の当り芸といわれた

市川海老蔵と信長についての芸談をかわす。

生粋の役者根性

 市川雷蔵は本名太田吉哉。昭和六年八月二十九日、大阪歌舞伎市川九団次の息子として、京都で生まれた。十六歳父の旧名筵蔵を継いで初舞台。二十一歳のとき市川寿海に見込まれてその養子となり、雷蔵を襲名した。この名は市川家では由緒があるもので、初代は四世団十郎と並んだ立役、荒事の名人であった。現雷蔵は七世に当る。

 九団次も寿海も、扇雀を生んだ鴈治郎、錦之助の父時蔵とは違って地味で実直な人である。俳優の中では決して色とにおいがあるほうでなく、カーッと照りつけるものもない。雷蔵に花やかさと熱気が乏しいのも、この生れが影響しているのかもしれない。

 京都の映画人の間では、こういう定評がたっている。

 「行く先によって連れを選ばなければならないが、気を使うところへは大川橋蔵、気のおけないところへは中村錦之助、退屈するところへは市川雷蔵とは、こりゃどうじゃ」

 注にいわく−橋蔵は、気がよくまわり如才なし、古くもなく新しくもなく。身なりも目だたずして野暮にも落ちず、伝法に流れざるを第一とする。錦之助は飾りもせず気取りもせず、奔馬のごとく白面童子のごとし。興至れば面白ききと随一なり。さて雷蔵は、浮き立たず騒ぎもせず、粋がらずケレンア味がなく、身を持てあませば、ひとり写真とたわむる−うまいこというものである。

 この実直なサラリーマン・タイプの雷蔵のうちには、芸への激しい執着とシンの強さが内包されている。武智鉄二のシモトをうけた大阪青年歌舞伎も雷蔵の今日に、大きな作用を及ぼしているが、当時の同僚だった中村扇雀は、

 「あのころから、たいへんな勉強家でネバリ強かった」 と言っている。