そして、実際に遠田恭子さんの名が、雷蔵の候補者として浮かびあがってきたのは、ちょうど、この直後であった。京都を出るのを喜ばない雷蔵が、この頃から、暇をみつけては、上京してくるようになった。
当時、大映社内では、
「雷蔵は新聞記者たちと演技のことで、ディスカッションするのを楽しみに東京にきている」と、説明していたが、雷蔵は東京に出てくると、かならずと言ってよいほど、目白の遠田家に現われている。目白の遠田家は、永田社長の関係で、あいさつに行くていどだろうと最初は思われていたものだ。
ところが、このころから、雷蔵が女子大出の女房を欲しがっているという話がとびだしてきた。遠田家には、恭子さんという日本女子大に通うお嬢さんがいる。しかも、前の年の十一月には、永田社長から恭子さんを紹介されているというのだから、符号がピッタリ合ってきた。
そして、七月から八月にかけて、外側から見た雷蔵の婚約者は、遠田恭子さんと確信が持たれるようになったわけだ。確証を得るために、いっさいの材料を持って、S紙の記者が永田秀雅専務に会見を申し込んだのも、このころである。
この時、永田専務は
「ともかく、その件に関してはいまは、なんとも言えない。あなたの方も、これ以上は追わないで欲しい」
いわば“休戦”を申し込まれたという。
“雷蔵と恭子さんが、三十六年の暮れからヨーロッパに婚約旅行に出かけるらしい”
“婚約発表は、はやくとも、三十七年の春になるだろう”
こう言った話が、どこからともなく聞かれるようになったのが、その時以後に関する二人の消息である。

人間雷蔵の性格が
さて、以上が、正式に婚約を発表した市川雷蔵と遠田恭子さん二人の、これまでのいきさつを、外側から見た結果であるが、雷蔵が発表の席上で語った“知りあうまでの経過”とはかなりのちがいがあるのがわかる。市川雷蔵は派手なことの嫌いな人である。
テレビのブラウン管に写るロカビリー歌手を見て、
「こんな人たちに、映画が撮れるのか」と批判する雷蔵。
「橋君、朱ザヤに紫の下げ緒のついた刀を贈ったけれど、とても、ぼくにはあんな派手なものは使えない。でも、あのぐらいの年齢の人たちには派手な方がいいんでしょうね」
“橋幸夫との兄弟コンビ”と、大映が、売り出しの宣伝に使ったが、雷蔵自身、かなり批判的な見方をしている。
この二つは、雷蔵という人の性格を現わすエピソードといえる。この雷蔵の性格が、マスコミに派手に騒がれるのを嫌い、ひたかくしに、恭子さんとの関係をかくしとおしたといえるであろう。それは言いかえれば“おとなしい家庭的な恭子さん”を、記者たちのぶしつけな矢おもてから、かばいとおす雷蔵の愛情のあらわれともいえた。
この間、遠田恭子さんとの関係を問われて、雷蔵は終始
「知りません」の一点ばりを変えなかったのである。 |