時代劇の未来を賭けた二つの顔

僧侶と商人の生き方

 二人の近代青年俳優。彼らにかけられた今年の期待は、かなりきびしい。

 「錦之助の近代性は、彼の個人的なものではない。東映という映画機構がつくりあげたものである。もし、雷蔵と比較するとなると、そこには大きな違いが生れてくる。少なくとも、雷蔵の近代性は雷蔵個人のもので大映とはなんの関係もない」(映画評論家・岡本博氏)

 ところが、雷蔵にしても安心してはいられない。「雷蔵は、『炎上』で微妙な陰影をなげかける演技を要求された。雷蔵は、それにいちおう成功したというべきだろう。だが、それだからといって、彼が大映という組織の中で、“時代劇商品”として振舞わなくてもよい、ということにはならない。彼もまた大映の一コマでしかない」(市川監督)

 さらに、市川監督は、『炎上』の雷蔵を、決して高く評価する必要はない、という意見だ。「もし、成功したとすれば、彼がまじめに対象に取りくんだことだろう。演技者としての効果は、これからまだきびしい道を歩まねばならない。ブルー・リボン賞をもらったのも、彼の現在の評価というよりか、今後への激励を意味するものでありたい」

 誠実さ、きちょうめんさといったものは、錦之助の中にもある。錦之助の生活は、酒と仕事と野球の三つだといわれる。そのとおりにはちがいないが、酒はどんなに飲んでも、つぎの日にさしつかえるようなことはない。野球は巨人ファンで、日本シリーズ四連敗のときには、声をあげてくやしがった。タイガースファンの雷蔵が、巨人戦に敗れると、実力だから仕方がないといってあきらめるのとよい対照である。

 なにしろ、錦之助が、ほんとうに仕事のことを忘れるのは、野球のときだけだという。酒をのんでいても、一人でのむことはないから話はすぐ仕事のことになる。そのとき、もし、よいアイデアが浮ぶと「それはイケル」といって、つぎの日の演技に必ずつかうし、二人とも、スタジオ・マンにはなかなかの人気。よく気がつくのだ。

 雷蔵はカミナリというアダ名がある。が、彼は麻雀などをやりながら、相手から「どうだ、カミナリ」といわれても、平気な顔をしている。生意気な女優だったら柳眉を逆立てるところだ。

 錦之助も、彼にライトをあてていて水中に落ちた照明マンに、自分の背広をやったりする。かなり神経が細かいし、映画が、共同の作品であり、芸術であることを承知しているのである。

 ところで、昭和三十五年度の錦之助の第一作は、マキノ雅弘監督の『弥太郎笠』である。この脚本は、先輩の片岡千恵蔵が二度もやっているし、鶴田浩二も一度やったことのある股旅ものだ。錦之助にとっては、軽くコナせるかもしれない。

 問題は、その次の作品『親鸞』である。吉川英治も原作だが、青年期の親鸞の人間的な苦悩が、仏に対決したうえで語られるだけに、たいへんな心理劇になるわけだ。しかも、この映画が封切られるとき、市川雷蔵の『ぼんち』が、市川崑監督の手で完成する。錦之助の僧侶と雷蔵の商人。一方は色欲に対決し、他方は色道を修業と心得る。はからずも、青年期の、はげしい二つの生き方が描かれるわけだが−、ひょっとすると、二人とも“演技”をこえた“心”をみせてくれるかもしれない。(女性自身 01/13/60号より)