新しい子を迎えて

去年の八月、親子で新歌舞伎座の舞台に立った。
苦労がむくわれて、寿海は、関西歌舞伎の第一人者になった。毎日演劇賞以下、かずかずの栄光にかがやき、昭和三十四年には芸術院会員。そして三十五年には、重要無形文化財−生きて国宝となった。夫婦そろって七十五才・・・。
・・・はたのみる目もうらやむほどの、情愛のこまやかさだった。「いつもおじさん(寿海)が、おばさんの手をひいて歩く、アベックが顔まけして、ふりかえったりする」(北上弥太郎)
「お酒が好きでした。酔うと、いい声で端唄をうたいます。そのうちに、足袋をぬぎだします。『ああだいぶ酔ったな』とみてると、ごろりと横になって寝ちゃう。それを寿海さんが、うれしそうにみてるんです。『おらく、カゼをひくよ』『はいよ、旦那』という、仲のよさでした」(大阪新歌舞伎座・広田支配人)
「幸福な晩年だった。苦しみの多かった一生だが、りっぱにむくわれて、役者の妻として、なすべきことを尽して死んだ。雷蔵の結婚式がみられなかったという、たった一つの心残りをのぞけば・・・」と、寿海と雷蔵の養子縁組を仲立ちした、白井信太郎氏(千土地興行社長)は、いう。
昭和二十六年四月。関西歌舞伎の市川九団次の子だった雷蔵を養子にむかえた。寿海夫婦には子供がなかった。やはり門閥にめぐまれず、反骨の人であった九団次の気性をうけついで、雷蔵は、はげしい性格の青年だった。
その直情で、むこう意気の強いところを、らく夫人は愛した。「この子は私に似ている」ふつう世間の、義理の母子のような、妙に遠慮した、べたべたしたものではなく、ほんとうに心をうちあけた愛情があった。
「お母はん。楽屋でオヤジのそばにハリツイてるの、やめとき。年よりの色もようは、みっともないで。もう隠居しや」「なにいうてる、おいとき!」
・・・ポンポンとやりあいながら、らく夫人はうれしい。雷蔵が悪口にかこつけて、病気の心配をしてくれているのが、身にしみて、よくわかるからだ。