浮世絵でもよく見られるように、襟足すわなちえり首の生えぎわの美しさは、日本女性特有のものだが、近ごろでは洋髪のため、この美しい襟足を残さないで、坊主にかってしまうのはわたしのように時代劇にたずさわる者にはいかにも惜しい気がする。
これは時代劇ではなかったが『噂の女』で溝口監督が、この襟足を使って、みごとなラブシーンを演出したことを覚えている。
その場面は、大谷友右衛門が久我美子に求愛するところだったが、まずピアノをひいている久我さんの背後へ来た友右衛門さんに、さりげなく彼女の襟足をなでさせたのである。
恋愛も究極は性愛になるわけだが、それに至る道程としては、最初から女性の恥じらうところにふれるべきでない。男性が魅力を感じる部分であり、しかも女性に不快な感じを与えないところとして襟足をえらび、終わりには接ぷんまでに発展させた。この微妙な溝口さんの演出には、全く感心した。
溝口監督は常々から、一つの場面の中で、感情が三段以上変化しないとダメだといっていた。例えば「私はあなたが好き」だけでは芝居にならない。「私はあなたが好き」「私もあなたが好き」が最初の心理とすると、次に「しかし、あなたは彼女も愛している」とシットが起こり「いや、彼女をば愛していない」という打ち消しがあると、三度目に前と同じような「私はあなたを愛している」というセリフがあってもその内容が変わってきて、芝居としてもすぐ接ぷんぐらいにまで飛躍できる、というようなことになる。つまり、溝口監督は心のもつれ合いを基調とした行為の発展を最も重視していたのである。
恋愛感情も多種多様で、性の倒錯や偏向、表象愛があり、さらに病的、狂的なものも少なくない。「ぼくは今後何年生きていても、一生のうちにやりつくせないくら、やりたいものがあるんだが・・・」と、溝口さんはよくいっていたが、時代劇ではほとんど未開拓といった病的な恋愛感情の表現においても、きっといろいろと考えていたにちがいない。
この溝口さんの影響を受けた増村保造監督が『好色一代男』で、市川雷蔵の世之介が若尾文子の太夫の足に接ぷんさせて、フェテイシズム的なラブシーンを描いたり、当時の男娼の陰間茶屋を出したりしていたが、こういったところにも、時代劇の変わった形のラブシーンはいくらもころがっていそうである。
有名な、荒木又右衛門の「鍵屋の辻の決闘」も、直接の原因は男色の遺こんだったといわれており、西鶴の「武道伝来記」や「男色大鑑」などを読んでも女も及ばぬ当時の美少年に対する恋のもつれが、いろいろな悲喜劇を起こしていることを知ることができる。
こうした題材は映画の最も神経質になるものだが、時代劇に志した以上、わたしもいつかはやってみたい夢を多分にもっている。 (宮嶋八蔵)
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