日本映画では、時代劇、現代劇をとわず、完成した作品を一般公開するまえに、映画倫理委員会に必ず見せることになっている。
これはアメリカ軍の占領当時の置きみやげの一つで、映画倫理規定というのもハリウッドの映画規定に負うところが少なくない。
ところで、倫理とか道徳というものは時代とともに移り変わってゆくものだから、映画倫理もまたある程度の拡大解釈は許されていいと思うが、実際われわれが直面して、理解に苦しむことがしばしばある。
たとえば女性の乳首を映画に出すことは、きついご法度になっているが、これが紗とかナイロンをすかして見えるのなら許される。ところが、ある新東宝の映画で所見したのだがそのベールが水にぬれてまるみえになり、かえってせん情的にさえ見えるのが、許されているのである。
また、同一場面における男女混浴の場面もなかなか許されない。映画特有の手法である画面の切り返しを応用すれば、東京の撮影所のセットで男性をとり、京都の撮影所で女性をとって、適当に編集。あたかも同じ浴場に男女がはいっているようなイメージをいだかせることなど、ごく初歩の方法なのである。
撮影では同一場面に男女がはいってなくとも演出と編集次第でいくらでもせん情的にもなるものだ。いたずらに同一場面だからとカットするのもどうかと思う。
森一生監督の『人肌孔雀』という時代劇で、山本富士子のスタンドインになったヌードモデルが、全裸の後ろ姿で夜の谷川に水浴する場面があった。この仕上がったフィルムを持ちこんで映画試写に立ち会ったわたしは、映画委員の一人から
「あの山本さんの吹きかえが、おしりを三ふりもふるのはどうかと思う。せめて二ふり半ぐらいにしてはどうだろう」
という注意を受けた。そこでわたしは二つ返事でフィルムにハサミを入れたが、実際に切ったのは三コマだけで、見た目ではほとんど切る前と変わっていないのに、そのまま無事OKになった。
実は、わたしはそれ以前に、溝口健二監督の『楊貴妃』の入浴シーンで、京マチ子の吹きかえの全裸の女性(もちろんこれも後ろ姿だが)が、おしりを三ふりはおろか十ふりくらいもしているのが通っていたのを知っていたので、前記の裁定にいささか服しかねるものを持っていたのである。
『人肌孔雀』はいわゆる娯楽時代劇で客層も広く、『楊貴妃』の場合の観客と質的にもちがうことを考慮に入れたものと思えばそういう解釈も成り立つのかもしれない。(宮嶋八蔵)
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