市川雷蔵は本名太田吉哉、昭和六年京都の生まれの二十八歳、生後僅か三ヶ月目で父の姉に当る人の家、関西歌舞伎の名脇役市川九団次の養子になって大阪で育った。
少年時代の友人に中村扇雀、嵐鯉昇(今の北上弥太郎)、林成年等がいる。初舞台は昭和二十一年、三代目市川莚蔵を襲名して大阪歌舞伎座「中山七里」における茶屋娘お花という女形の役だった。彼と鯉昇とが幹事になって作った歌舞伎の研究グループ“つくし会”は演劇批評家武智鉄二の指導で新しい歌舞伎の実験劇場へと発展、のちに武智歌舞伎と呼ばれるようになった武智鉄二の厳しい演技修練の鞭が、今日の雷蔵の血となり肉になっているといえる。
雷蔵の優れた素質を認めた武智は封建的な歌舞伎社会でよい役をつけるには雷蔵を名門の養子にするよりほかにないと、間もなく雷蔵は市川寿海の養子となって八代目市川雷蔵を襲名。それから数年、芸界の変転は激しく、鯉昇、扇雀、鶴之助が相次いで歌舞伎から銀幕に移動、雷蔵にも大映から誘いの手が伸び。二十九年、『花の白虎隊』を第一作として映画俳優へのスタートを切った。
これに対して大川橋蔵は本名丹羽富成、雷蔵より二つ年上の昭和四年生れの三十歳、雷蔵が大阪のぼんちなら橋蔵はチャキチャキの江戸下町ッ子、芸歴は雷蔵よりぐっと古く、昭和十年東京歌舞伎座で子役市川男女丸と名乗って初舞台、後年養父になった六代目菊五郎の「お夏狂乱」の里の童の役だった。
昭和十九年には六代目菊五郎夫人の実家丹羽家の養子になり、女形としての本格的な修行を受け、翌二十年六代目の「鏡獅子」に胡蝶をつとめ二代目大川橋蔵を襲名して名題になった。二十四年七月六代目死去、二十五年には「妹背山」「鏡山旧錦絵」の舞台を中村錦之助と仲良く交代で相勤めているのも今は語り草である。
こうして橋蔵は若手女形のホープとして大きな期待をかけられたが、雷蔵の映画入りにおくれること一年目の三十年東映作品『笛吹き若武者』(美空ひばり主演)で映画初出演、続いて右太衛門の『旗本退屈男・謎の決闘状』に出演してから長年の歌舞伎生活に別れを告げて映画スター橋蔵だ生れた。
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